2022年2月04日(金) | by 柏陵ウェブ編集部 コメントする

 柏原ライオンズクラブ(山下一彦会長)が青少年育成事業の一環として、被差別部落問題を取り上げた歴史教室「大江礒吉の生き方に学ぶ」を19日、崇広小学校で同校6年生(62人)に向けて行った。明治時代、いわれなき差別を受けながらも教育の道に邁進した大江は、柏原中学校(現柏原高校)の2代目校長を務め、島崎藤村の小説「破戒」の主人公のモデルともなった。大江の生涯をまとめた著書を引っ提げ、全国各地で講演活動を展開している元柏原高校教諭の荒木謙さん(78)=市島町梶原=がオンラインで講演した。要旨は次の通り。

「差別許さない人育てたい」

 大江は明治元年(1868)、長野県の被差別部落に生まれた。もともとの名は「磯吉」で、のちに「礒吉」と改める。
 祖父、父、母、兄の5人家族。父や祖父は、旅芸能や村の警察官の下働き、田植えの手伝い、墓掘りなどの仕事をしていた。収入が不安定で貧しかったが、家族は「差別の苦しみから抜け出すためにも、学問で身を立たせてやりたい」と磯吉を必死の思いで学校に通わせた。母親は、学費を捻出するために、せんべいを焼き、売り歩いたが、「低い身分の者が作ったせんべいを一般の人は食べないだろう」と、自分の身分を知らない遠方まで出掛けて商売をした。売れ残ったせんべいを磯吉に食べさせようとしたが、母の苦労を知っていただけに食べなかった。
 磯吉は、部落の人が強要され着せられていた、ほかの人とは違う服装をしていた。けんかをしないよう、いつも愛想良く、人の後ろについて遊んでいた。人に勝つと、差別感情が起こり、いじめられるので「負けること」に努めていた。それでも学校の襖が破れたり、盗難があったりすれば磯吉のせいにされた。
 登校時に、友だちの支度が整うのを友人宅の前で待っているとき、雨や雪の日でも決して家の中に招き入れてもらえることはなかった。
 明治14年(1881)、8年通った小学校を長野県トップの成績で卒業。卒業名簿には成績順に名前が記載される習わしだったが、校長から部落の人を1番目に記載することはできないと言われ、2番目に記述された。当時、教育者であってもこのような差別をしていた。
 同年、小学校の代用教員となったが、保護者の反対を受け、1年で辞めさせられた。
 成績が良く、日頃の行いも良かった磯吉は、近隣からの支援を受け、当時は進学が珍しい中学校(現在の高校)に入学。英語の教師から、欧米の民主主義を教わり、自由と平等の尊さを知った。
 18歳で念願の小学校の先生となるも、またも磯吉の「生まれ」が問題になり、学校を追われた。
 明治26年(1893)、大阪師範学校の教諭となり、名を「礒吉」に改めた。しかし、そこでも「生まれ」を暴かれ、鳥取の師範学校へ移り教鞭を執った。
 明治4年(1871)、被差別民への差別を禁じた解放令が発令されたが、差別は続いていた。「法律だけでは駄目。人の心が豊かに変わっていかないと差別はなくならない。差別されない人になるにはどうすればよいか」を考えたとき、「しっかりと勉強し、誰からも愛され、人を思いやり、清く正しく生きること」と導き出し、教え子が「あらゆる差別を許さない」強い人に成長してくれることを願った。教師になった理由もそこにあった。
 明治34年(1901)、校長として着任した柏原中学校では、生徒の自主性や自立心を高めるため、軟式テニス部や野球部、英語弁論部などをつくることを認めるなど、生徒の希望に応じた活動を奨励。翌年、34歳の若さで病死するが、生徒がのびのびと学べる校風をつくりあげたことにより、のちに内閣総理大臣になった芦田均などの政治家をはじめ、歌人や俳人など、さまざまな分野で活躍する人物を輩出している。

(丹波新聞)

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