2011年6月21日(火) | by 柏陵ウェブ編集部 コメントする

 柏原中学校の同窓会報は大正5年(1916)に創刊され、昭和16年(1941)まで続いた。
 記念すべき第1号では、会長の大塚薫(柏原中5代校長)が巻頭の辞を寄せている。「わが柏原中学校は、今や卒業生を出すこと五百有余名、欧米の天地に活動せるあり、満清の広野に飛躍せるあり、学者たるあり、軍人たるあり、実業家たるあり、修養の途にあるあり」としたあと、母校やふるさとに寄せる同窓生たちの思いを称賛。「わが柏中同窓会の設置は、実に諸君のこの美しき真情の流露し凝結して成れるものにほかならざるなり」とした。

創刊号、芦田均ら近況紹介

 会報に便りを寄せた同窓生のなかで、目を引くのは無政府主義者の近藤憲二。市島町の生まれで、大正2年卒業の近藤は早稲田大学在学中、無政府主義に傾倒。のちに日本アナーキスト連盟を創立した。

柏原中学校同窓会報

大正5年に創刊され、昭和16年まで続いた旧制柏原中学校の同窓会報。創刊号では、芦田均や大西瀧治郎、有田邦敬らの近況を「会員消息」として紹介している

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 会報には、「僕らが自己の生活を自由に開拓しようとしても、現今の社会制度は個人の発達をまったく無視して、あらゆる手段をもって奴隷的生活を強いている」などとあり、無政府主義者としての萌芽がみられる。
 会報では、「会員消息」のコーナーがあり、同窓生たちの近況を簡潔に紹介。のちに総理大臣になった芦田均(明治37年卒)については、「東京帝大に在学中、外交官試験に合格したる君は、露国大使館付として目下ペトログラードに在り」 としている。
 このほか、特攻の生みの親とも言われる軍人の大西瀧治郎(明治43年卒)については「海軍兵学校を出て軍艦に乗り組んでおられたが、目下横須賀海軍水雷学校に御研究中である。相変わらずの精力家である」、大阪市助役として御堂筋や地下鉄の建設に心血を注いだ有田邦敬(明治35年卒)について「このたび大阪市助役として赴任せらるることとなった。君の辣腕(らつわん)は今後、大いに見るべきものであるであろう」と紹介している。

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