2021年3月29日(月) | by 柏陵ウェブ編集部 コメントする

 柏原高校がこのほど、第一線で活躍している卒業生を講師として迎える講演会「ようこそ先輩!!」を同校で開き、彫刻家の磯尾隆司さん(61)=柏原町柏原=が登壇。1、2年生(計457人)を前に「三代目柏里への道」と題して半生を語り、「良いことも悪いことも言い合える仲間がいることの大切さ」を伝え、「芸術作品に出合ったとき、少しの時間でいいから作家が何を訴えたいのかを考えながら作品と向き合ってほしい」などと話した。生徒たちは話に耳を傾け、将来の職業選択や生き方のヒントにしていた。講演要旨は次の通り。
 彫刻家の父が四角い木から手品のように作品を削り出していたのはよく目にしていたが、かといって彫刻や美術に興味がある子ども時代ではなかった。
 小学生の時からピアノを習い、中学の合唱コンクールの際、メロディだけの曲に3部コーラスを付けて発表したこともあった。音楽の成績は卒業するまでオール10で、音楽教師からも「音楽の道に進まないか」と勧められたことがあった。部活では卓球部に所属し、当時の郡大会で個人・団体共に優勝した。
 中学卒業を控え、潜在意識の中に「後を継ぐ」という意識が少しずつ芽生え始めてきた。
 柏原高校でも卓球を続けたが、美術教諭をしていた叔父から将来の身の振り方を問われ、「一応、後(彫刻家)を継ぎたい」と答えると、「それでは芸大へ行きなさい。デッサンが大事だ」と告げられ、1年生の2学期で卓球部を退部。受験のために美術部に入ってデッサンに明け暮れた。
 奮闘虚しく、武蔵野美大、多摩美大は不合格。ふてくされて無気力になっていたところ、第一志望だった金沢美術工芸大学に奇跡的に受かった。
 希望に胸膨らませ通ったが、しばらくするとさぼりがちになり、2年生を2回経験した。5年目の4年生、卒業が迫った秋に同級生7人で日展に初出品したが、私だけが落選。苦い思い出だ。大学卒業後、県展で大賞受賞し、その秋、念願の日展デビューも果たした。
 その後、日展の入選を繰り返すようになったが、「これくらいの物を作ったら入選できるやろう」という態度になってきた。するとやはり落選を4度経験した。
 私をここまで導いてくれた人物がいる。市島の画家、木寺明さんだ。1990年、「田舎のぬるま湯に浸かっているような画家生活をしていてはいけない」と、柏原高校美術部OBでつくる「柏美会」メンバーで、中央で活躍する芸術家に「もっと厳しい環境で作家活動をするグループをつくろう」と声を上げられた。8人で「MAYBE(美)」を結成。「かもしれない」という意味で、この中からひょっとしたら、すごい作家が生まれるかもしれない、という思いを込めた。年1回、展覧会を開いた。展覧会後の合評会は厳しく批判し合う場となり、後輩から「磯尾さんの作品からは意欲が伝わってこない。本当に作りたいと思うまで、いったんやめた方がよいのでは」と言われたこともあった。
 10年間続いた。会友たちは結果を残したが、私は何も残せなかった。しかしその翌年、日展で特選を受賞。その後はほぼ順調に進んでいる。
 3代目柏里として認めてもらえたのは、環境と指導者、仲間に恵まれたから。仲間と言えども、だめなときにはきちんと叱ってくれる仲間が大事だ。今でも仲間の顔が浮かび、「何つまらない作品を作っとるねん」と言われそうで奮起できている。MAYBE(美)の仲間との交流は続いている。良いところ、悪いところを言い合える仲間がいてくれて、本当に良かった。
 抽象作品、現代アートを目にしたとき、「分からへん」で済ませる人が多い。この先、都会で暮らす人が多いと思うが、田舎よりはるかに芸術作品を目にする機会が多くなる。そのとき、少しの時間でいいから、足を止め、タイトルを見て作品を見て、作家が伝えたいことは何かを考えることを習慣付けてもらえたらうれしい。

【磯尾隆司さん 柏原高校30回生(1978年卒)。3代目磯尾柏里。2000年と07年の日展で特選を受賞し、15年には改組新第2回日展の審査員を務めた。また地域では、丹波美術作家協会会長、丹波彫刻会会長、丹波市展実行委員会委員長などを務めている。】

(丹波新聞)

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