2018年9月20日(木) | by 柏陵ウェブ編集部 コメントする

芯の通った“じじバカ”最期の言葉「政治家を志すな」

 旧制柏原中学校(柏原高校)卒業生で、1948年、内閣総理大臣に就任した芦田均の孫、下河邉元春さん(78)=東京都=が、柏原高校で全校生徒を対象に「肉親が見た芦田均」と題して講演した。下河邉さんは元時事通信、共同通信記者。芦田均の長女ミヨの長男にあたる。講演の要旨を紹介する。
均は5歳の時、ジフテリアにかかった。看病をしていた母親や、2人の姉に病気がうつり3人とも亡くなった。このことは均にとって生涯のトラウマになったよう。母を失った寂しさをまぎらわすためか、均は相当な悪ガキだった。私に「学校の先生にほめられるような男の子は、世の中の役に立たん」と話していたものだ。
10歳の時、生家のある福知山を離れ、柏原の大庄屋、小谷家に預けられた。とてもしつけの厳しかった50歳ほどの女性、小谷幸さんに育てられた均は、のちに「あなたのおかげで今の私がある」と、感謝の手紙を幸に送っている。

芦田均の孫が柏原高で講演 下河邉元春さん

芦田均の孫が柏原高で講演 下河邉元春さん

母親の愛情に飢えていたためか、均は生涯を通じて家族を大事にした。ドライブやピクニックに連れて行ってくれたりと、孫の私たちに“じじバカぶり”を発揮した。しかし、溺愛はしなかった。人としての基本のしつけに厳しく、幸さんに育てられたように孫も育てようとした。
昭和30年の夏、中学校3年生だった私と弟2人の3人、均に連れられて福知山に帰った。夜行列車に乗ったのだが、均は1等車なのに対して私たち孫3人は3等車。福知山の村の人たちにも「君たちの子どもと同じように扱ってください」と釘を差していた。「子どもは半人前」が口癖だった。私たち孫3人が私立ではなく、公立の小学校で学んだのも「男の子はさまざまな境遇の子どもたちの中で育たないといけない」という均の考えからだった。
私たちに特権意識を持たせないためだったのか、均は「わしは百姓の出身だ」とよく話していた。これは、士族の出身で気位が高かった均の政敵、吉田茂に対する当てつけだったのではないか、とも思う。
 均はリベラルな人だった。それは旧制柏原中学校の2代目校長で、自由と平等を尊ぶ教育を推し進めた大江礒吉の影響を受けたからではないか。均が中学校時代に書いた論文を読み、丹波の山村で育った中学生がこんな発想をするなんてと驚いたことがある。教育理念がリベラルそのものだった大江との出会いは均にとって大きかった。
均はもともと文学好きで、文学に断ち切りがたい思いを持っていた。家では本を読んでいるか、原稿を書いているかのどちらかで、1日3冊、まったく違う本を読んでいた。履歴書には「代議士」と書かず、「文筆業」と書いていた。政治家を職業として書くのを嫌っていた均は、「政治は世襲するものではない」とも言っていた。安易な世襲による政界進出を戒めていた。
均が私に言い残した最期の言葉は、「政治家を志すな。政治家になるには真っ正直すぎるから」だった。この言葉には自省の念も含まれていただろう。均は政治家にならなかった方が良かったかと思う。研究者、文学者の道に進めば大成していただろう。

丹波新聞

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